利長、舟橋をかける
日本一とうたわれた神通川の船橋 富山売薬版画
 続いて、利長が付設したのが始まりだという神通川にかかる船橋のことをお話しましょう。
 富山城が誕生した天文年間には、神通川に「舟渡し」が設置されていたようです。佐々成政も、五艘の舟を設けて「舟渡し」の便宜をはかり、船賃を徴収していました。富山には、「ごそう」という地名がありますが、佐々の「五艘の渡し舟」に由来する地名だとの説があります。この「舟渡し」を止めて「舟橋」に変えたのは、前田利長が富山城下町を開いた慶長10年(1605)の頃とされています。始めは32艘の舟を並べて、板を置いただけの舟橋でしたが、その後、寛文年間のころには、規模が拡大され、64艘の舟を並べ鉄鎖2条でつなぎ敷板を並べたものに発展したようです。
 舟橋は、神通川中流では唯一の川渡りの場所でした。北陸道の陸上輸送と神通川の河川輸送の接点でもあり、物と人との往来で賑わいました。
常夜灯が森林水産会館脇に船橋の名残として立っている
 神通川にかかる船橋は富山の名所として知られ、「日本一の舟橋」といわれる景勝の地でもありました。前掲の版画は富山売薬さんのお土産「売薬版画」。この「売薬版画」にあるように、景観にもすぐれた船橋のたもとの茶屋で売られていた「あゆのすし」は富山の名物で、たいそう人気を博していたそうで、
      名物の 鮎のすしとて 皆人の
      おしかけてくる 茶屋のにぎわい
と、詠んだ歌もあるそうです。この「あゆのすし」が現在の「ますのすし」のルーツだとか。
 神通川は、富山平野の背後にひかえる3千m級の山に水源をもち、そこから一気に富山湾まで流れ込む、とても流れの速い川。富山の川は皆そのような急流です。さらに、春先となれば、冬季に降り積もった大量の雪が雪解け水となって集まり、増水によって川幅は洪水のように広がります。
 従って、神通川は橋をかけにくい川でした。その点、川の水位や流速の変化に応じて川にぷかぷかと浮ぶ舟橋は、以上のような富山特有の自然条件に適していました。
 しかし、近代化にともなう交通量の増大、架橋土木技術の進歩等から、明治15年(1882)「木橋」に架けかえられ、船橋はその姿を消すこととなります。
 現在、舟橋北町の森林水産会館のそばに残る常夜灯と七軒町松川堤防上の常夜灯の間が、船橋が架かっていた場所です。ふたつの常夜灯間は直線距離で約 200mほどありすが、これが昔の神通川の川幅でした。その間に64艘の舟を並べ鉄鎖2条でつなぎ 敷板を並べたのがかつての船橋だったのです。現在、神通川の本流は引越して旧河川は埋め立てられ、ビル街に転身しています。松川という細い河川がかつて舟橋のかかっていた神通川の名残です。
 ただし、前田利長の架けた舟橋は、木町(今の本町。電気ビルのあたり)の地点にかけられていたと考えられており、初代富山藩主前田利次よって、舟橋町・七軒町間の地点に舟橋が移しかえられたようです。
富山市郷土博物館所蔵『俳諧 玉飛路ひ(たまひろい)』(著者:麦仙城烏岬 画:松浦守美)越中の名所30カ所で詠まれた俳句を絵とともに載せた版本。神通川の舟橋の挿入画は常夜灯も描かれている。

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