将軍家光には、この上洛で果たすべき重大な使命がありました。それは寛永6年(1629)の「紫衣事件」以来の、朝廷と幕府との対立を修復させることでした。
紫衣事件とは、朝廷が高僧に与えていた紫衣授与の特権を幕府が規制したところ、後水尾天皇がこれを無視して従来の慣例通りに紫衣を勅許し与えたので、腹を立てた幕府がこれまでに朝廷が授与した紫衣勅許をすべて無効にしたという事件です。
紫衣勅許は、朝廷がその権威を背景に寺院に対して発動する特権でしたし、朝廷の収入源でもありましたので、朝廷はこれを無効にするなど、やすやすと受入れるわけにはいきませんでした。大徳寺・妙心寺の僧たちも激しく幕府に抵抗しました。これに対する幕府の態度は厳しく、大徳寺の沢庵や妙心寺の玉室らを流罪に処しました。ちなみに、この事件のときに、春日局が将軍の名代として後水尾天皇に謁見し、初めて「春日局」の称号を賜った話は有名ですね。
紫衣事件から5年を経た寛永11年、幕府の圧倒的な権勢を見せ付け堂々入洛した家光は、朝廷に参内し後水尾上皇に謁見しました。そして上皇に7千石もの院領を献上し和睦を果たしました。また、家光は大徳寺に多大な寄進を行い法堂・仏殿などの伽藍を整備し、妙心寺には春日局のために、麟祥院を開きました。
家光はこの上洛で、もうひとつに、紫衣事件の首謀者沢庵との初対面を果たしています。寛永9年(1632)に徳川秀忠が死去した大赦によって、紫衣事件に連座した者たちは許され、出羽国上ノ山に流罪となっていた沢庵も刑を解かれて大徳寺に戻っていました。
この対面の後、家光は沢庵に深く帰依して江戸に沢庵を呼び寄せました。沢庵は故郷に帰ることを強く望みましたが、同16年、家光は品川に万松山東海寺を建て、沢庵を開山とし江戸に留まらせました。家光と沢庵との対面を取持ったのは、柳生宗矩とされていますが、実のところ、それは祖心であったとも言われています。妙心寺雑華院の一宙(祖心の叔父)と懇意であった沢庵と祖心は、面識を持っていたというのです。また、沢庵を江戸に招請することを家光に薦めたのも、東海寺建立し江戸に逗留させるよう仕向けたのも、祖心であったとか。表向き、将軍家光の帰依を受けての江戸逗留ってことですが、まぁ、別の見方をしてみれば、幕府に反抗した沢庵を朝廷勢力から切り離し、江戸で人質にしたともいえるのでしょう。故郷に帰る夢叶わず、沢庵は正保2年(1645)に江戸で没しました。彼は最期を迎えたとき、墓も葬儀もいらぬ、お経もあげるなと告げ、弟子に「夢」の一文字を書き残したことは有名な逸話です。享年は73歳。
こういうと、家光と沢庵との関係は大丈夫だったのかと危ぶまれますが、済松寺には、ふたりの交流を偲ぶものとして、家光と沢庵と祖心の禅問答書『 挙一明三 』所蔵されています。天下の将軍と、当世随一の文化人、そして大奥の要人とが交わした超ビック対談を伝えるリポートは、当然のことながら江戸の大ヒット作となったそうです。
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