富山と高岡
富山市呉羽山からみた富山市と立山連峰
 富山在住中村邦夫さんの作品
 富山城下町ができた時、二上山の守山城下町から、多くの町人たちが富山へ移り住んだとされています。そして、高岡城下町ができた時には、多くの人が富山町や守山町から高岡に移り住んだそうです。中には、利長に従って越前府中、守山、富山、高岡と移り住んだ者もいました。また、守山から富山、富山から高岡への寺院の移動もありました。高岡廃城後には、高岡から富山に戻った者もあり、この時代の富山―高岡間の人の移動や交流は非常に頻繁であったと予想されます。おそらく、利長の築いたふたつの町、富山と高岡とは兄弟のように似たところがあったに違いありません。
 ところが、現在、呉羽山を境に、富山市を中心とする呉東と高岡市を中心とする呉西では、文化の違いが様々に指摘されます。高岡は関西文化の、富山は関東文化の影響を多く受けていて、食文化や生活習慣はもとより、言葉も違えば、人柄までも違うとか。
 富山から高岡へ嫁に来た女性の中には、そのような文化の違いのために苦労している人もいます。富山の嫁の実家から「歳暮にぶりを持ってこない」とか「長男が生まれたのに、天神様を持ってこない」とか、「料理の味付けが塩辛い」とか、「里帰りの土産に饅頭をもってこない」とか、いろいろとうるさいことをいう古老が、わずかですが生き残っておられるのです。高岡には。
高岡のうどんつゆは、関西系
 確かに醤油の味について言えば、富山市と高岡市とでは驚くほど異なります。富山市で人気が高いのは、関東系の辛い醤油。高岡の一円では「加賀の醤油はなぜ甘い」でも紹介しましたが、甘い醤油が愛用されていて、甘口醤油の中毒患者が多数おられるのです。
 また、以前に、地元局のKNB北日本放送さんが、北陸自動車道の富山県内のドライブインにおいて、「かけうどん」のつゆの色を調査されたところ、呉東と呉西との色の違いは明瞭であり、なんと東の朝日インターから、西の小矢部インターにかけて、つゆの色が各インターごとに、だんだんに薄くなっていることが明らかになったのです。関東系つゆから関西系つゆへ、うどんつゆの関が原は呉羽山にあった。富山県醤油味噌協同組合でもやらない、うどんつゆの地元調査をテレビ局でやって下さろうとは。まこと、頭が下がりました。
 このような現象はいつからものなのでしょうね・・・。
 漠然と古い時代からのことだろうと思っていましたが。
寛永16年(1639)に、前田利常の次男利次を藩主として富山藩が分藩された後のことなのでしょうか。それとも、もっともっと後の事?再考してみる必要がありそうです。
 高岡の人が「摸擬城」「鉄骨城」と呼ぶ富山城天守閣。半世紀の歴史を経て、今では藩政時代以来の本物の城かと思うくらいの風格が備わっています。お濠の水面に映る天守閣の姿が美しい。富山城天守閣の内部は、旧富山藩に伝わった美術品や武具類、豊富な富山売薬資料などが所蔵された、富山市郷土博物館となっています。前田利長のなまず尾の兜も見ることができますよ。現在は、耐震用建造物に改築中で閉館していますが、今年平成17年の秋に開館の予定です。リニューアルオープンが楽しみです。
富山城の石垣が今日の位置に築かれたのは利長時代。その後、積み直し・増築などの施工を経て今に伝えられている。

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