牧村家の家系は実に複雑です。京都市妙心寺雑華院の寺伝によりますと、牧村兵部は、美濃の「斎藤伊予守の二男」に生まれました。また、母は「明智光秀の妹」と伝えられています。兵部の長兄は、明智光秀の重臣、斎藤利三(さいとうとしみつ)、弟は妙心寺雑華院開山の一宙(いっちゅう)和尚です。兵部は、牧村政倫の養子となってその名跡を継ぎ、稲葉重通(いなばしげみち)の娘を娶りました。その間に生まれた子が祖心です。
後に祖心の人生に大きく関わることになる大奥の春日局(お福)は、斎藤利三の娘として、天正7年(1579)に生まれました。つまり、春日局と祖心は父親同士が血を分けた兄弟、春日局は稲葉重通の養女となりましたので、ふたりは従姉妹であり、叔母と姪の関係でもあったのです。このように、春日局と祖心は、極めて近い親族でした。
そして、春日局も祖心も明智光秀の血統。本能寺で信長を滅ぼし、秀吉によって討たれた明智光秀の血をひく女ふたりが、三代将軍家光の側近となり、江戸城の黒幕として活躍していたなど、なかなか面白い話ではありませんか?
ところで、祖心には、牛之介(兵丸)という実弟がいたといいます。
天保13年(1842)に御巫清直が書いた『田丸城沿革孝』によれば、牧村兵部が亡くなったとき、息子の牛之介はまだ幼少だったので、牛之介が元服するまで兵部の弟、稲葉道通(みちとお)が家督を代行することになりました。道通は慶長5年(1600)の関が原合戦では東軍に味方した功により封が加増されましたが、牛之介が元服の年をむかえても兵部の遺領を返還しませんでした。怒った牛之介は駿府の徳川家康に訴え出ようとしました。すると、道通は刺客を送って牛之介を駿府で殺害してしましたというのです。
今の田丸町の三縁寺境内には稲葉道通の墓が現存しており、「慶長十二年未十二月卒」と刻字されています。御巫清直がこの話を書き留めたのは道通の死後、240年ほども時代を下ってのこと。事件の真偽は定かではありませんが、『寛政重修諸家譜』の「牧村」の項には、「(牧村)利貞は稲葉兵庫頭重通が男にして、外祖父牧村牛之介政倫が家を継、伊勢国岩手城に住して豊臣太閤に仕ふ。一男一女をうむ。男を孫右衛門 童名兵丸 何某という。慶長十二年七月二十五日駿府にて人に害せらる。女はすなはち祖心なり」とあります。事件の真相を知る手掛かりはありませんが、祖心の弟が慶長12年(1607)7月25日に、不幸な最期を遂げたのには違いないようです。そして、先の三縁寺の墓標によれば、叔父の道通も同年12月に亡くなっています。ここに祖心の生家、牧村家は一旦途絶えました。
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