(リ)大坂住吉神社の越中締綿廻船中大灯篭
 大阪住吉大社には、越中の綿商人たちが奉納した大灯篭がある―――。続いて、こんな情報が舞い込んできました。もしや、そこに手がかりがあるのでは。大灯篭の奉納者の中には、高岡の綿商人7人衆のうち何名かの名があるのではないのか。

 大阪市住吉区住吉にある住吉大社は、「住吉さん」の愛称で親しまれ、古くから廻船商人たちが航海安全・商売繁盛を祈願する神社として発展してきました。海彦山彦の神話や浦島太郎の説話のルーツもこの住吉にあるとのこと。平安時代の遣唐使はこの住吉の地で海上安全の祈願をして船出していたという大変に起源の古い神様なのです。
高岡商人たちも住吉神社には格別の崇敬を持っていたようです。

町並み資料館欄間
 掲載の写真は現在高岡町並み資料館として活用されている旧室崎邸の欄間です。室崎家では綿商いを営んでおられました。固い材質の一枚板に住吉大社の風景が、曲線美豊かに彫りこまれた大変優美な欄間で、高岡商人の「住吉さん」に対する憧憬や信仰心が伺えますね。こちらは、拝観が可能ですよ。高岡土蔵造りの町並みにお越しの際には、ぜひお立ち寄りください。
反橋 
上るときより降りるのが大変。基段は淀君奉納の由緒あるもの。橋の架け替えは船大工さんが奉仕することになっている。
角鳥居
別名住吉鳥居とも呼ばれる鳥居で柱が四角いとても珍しいもの
石灯篭
その巨大さ数の多さは圧巻というしかない。こちらは「北國積木綿屋中」の灯篭。基壇に刻まれている奉納者の名の中には銭屋五平衛家の番頭、銭屋喜助の名があった。
 住吉大社は、畿内でも指折りの古社で全国2000余りに及ぶ住吉社の総本宮です。海上守護・交通安全・外交・貿易・産業などにご利益があると毎年200万人以上の参拝者が訪れるそうです。大手企業トップや外務省関係者の参拝も多いとのこと。
 住吉大社は、620基を超える膨大な数の灯篭でも有名です。この灯篭群は「住吉灯篭」という独立した名を得ているくらいです。その数もさる事ながら灯篭が大きいことに驚きます。高さ5メートルを越える大灯篭が境内に所狭しと連立しているのです。ひとつひとつ見ていくとおもしろいですよ。「魚屋」「玩具屋」「呉服屋」「木綿屋」「堂島米屋」・・・・様々な業界の方たちが灯篭を奉納しています。灯篭に彫られている字の書体も実に立派なものです。頼山陽、池大雅・呉策・五井蘭州など名筆家による題字が多くみられます。
 狛犬さんも立派、立派。
 「いや、いや、感動感動。」と灯篭に見いって写真撮りをしておれば、田舎者丸出し。
あまりに、灯篭の数が多く高岡商人の灯篭はなかなか見つかりません。
このまま探していては日が暮れる。そこで社務所にお尋ねすることに。
社務所で権禰宜を務めておられる小出さんが、親切に高岡商人の灯篭まで案内して下さいました。
ありました、ついに。「越中締綿廻船中」が奉納した1対の大灯篭が。その高さは6メートルを越えます。住吉灯篭の中では18番目に大きいそうですよ。
 いや、この灯篭を目の前にするとそのような大きさを競う順位などはあまり意味のないことだと気付きました。この灯篭に施されている意匠のすばらしさはどうでしょう。うちのホームページじゃないですが、この灯篭は住吉灯篭の中の「デザイン大賞」です。田舎者のお国自慢のように聞こえるかもしれませんが、私は620を越えるといわれる灯篭の中で美術品として一番完成度に優れているのはこれだと思いました。
 「献燈」の堂々とした躍動感あふれる書体。とても深く彫り込まれています。誰の筆によるものか調べてみたいものです。
 灯篭は普通、下から順に下台・柱・中台・火袋・笠・宝珠(ほうじゅ)の6部位からなるそうです。春日灯篭ですと、それに返花(かえりばな)・蓮弁・蕨手(わらびて)・請花(うけばな)といった装飾が加わります。この灯篭は春日灯篭のグループに入ります。中台と火袋は六角とし、中台側面には波間をはねるウサギの彫刻が表情豊かに施されています。住吉大社のマスコットはウサギだそうですから、それにあやかるものでしょうか。
  さらに、火袋部分の窓枠は真四角に切ったものではなく微妙な丸みをもたせてあるのです。
笠の部分は大胆にそった蕨手を加え、突端の宝珠部分とバランスのよい円錐形のフォルムを保っています。硬い石の質感を克服した、円く柔らかで繊細な意匠。そして全体としての調和感。すばらしいと思いませんか。気品と威厳が兼ね備わっています。往時の高岡商人たちの財力だけでなく、教養や芸術に対する造詣の深さまでもが伝わってくるようです。
船乗りたちの航海の目標となっていた
住吉高灯篭
住吉のシンボルとして船絵馬や浮世絵にも多く描 かれている
なにわの海の時空館模型
 石工の名は、「見かけや新三郎」とこの石灯篭に記されていました。高岡関野神社の灯篭には「堺 石工 新三良」とありましたね。そうです。堺を「左海」と書いた人。新三郎と新三良は同一人物なのでしょうか。
この大灯篭は、安政3年(1856)に別の場所に奉納されたものが、後の明治23年(1890)に現地住吉神社境内に移築建造されたそうです。元々今の場所に立っていたわけではないのですよ。今は神社前を向かって左側一番隅っこのなんです。すぐ横が路面電車の駅。一等地とは言えません。 灯篭の基壇側面の由緒書には、
 「それこの石灯篭の建造は安政3年9月なり。旧地はこの隣村松浜十王前に築造せり。本社を離つことおよそ4町余り」とあります。権禰宜の小出さんにお伺いしたお話しでは、江戸時代の住吉大社の所有地は、今よりずっと広大なものだったそうです。

 明治時代になって数多くの灯篭が並んでいた住吉大社の広大な敷地は公営地となり、灯篭たちに破壊の危機が迫りました。そこで灯篭を今日のように境内に集めることになったそうです。その昔は、船着場があったという住吉の高燈篭のあたりから、住吉大社境内までの参道に沿ってたくさんの灯篭が建てられていたのでしょうね。「越中締綿廻船中」が奉納した灯篭もその参道に建ち、住吉を行き交う人々にその勇姿を仰ぎ見られていたことだと思います。「越中の綿問屋はんは、えろう繁盛な事でんなぁ。」なんて言われていたのでしょうね。
灯篭の説明をして下さった権禰宜の小出さん。
「灯篭奉納の建前は信仰。本音は広告塔です。これほどに商人たちの権威を示す広告は他にない」と話された。
江戸時代の住吉大社の様子
高灯篭・反橋・鳥居などが描かれている

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